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大川(隅田川) その1

「川と鬼平」と言っても、切り口は無限ですが、
まずは川を軸に考察してみます。

最初はやはり大川、今の隅田川でしょう。

いきなり閑話休題ですが、
「大川」という名前の川は全国にあるかと思います。
その町で一番大きい、一番有名な川には、
この名前が付けられることが多いようです。

江戸のエリアは東京よりもずっと狭かったので、、
ここが大川と呼ばれたのは、当然の成り行きでしょう。

大阪では、旧淀川の一部を今でも大川と呼んでいますね。

ちなみに現代の隅田川は、元々は荒川です。
荒川放水路が開通してから、そちらに荒川の名前を譲り、
隅田川が正式名称になりました。


さて本題です。

大川が出てくるエピソードは、
『鬼平』に数えきれないほど登場します。

私のデータベースの中だけでも、

「嶋やから舟を出させた平蔵が、大川から深川・熊井町の堀川へ入り、
いくつもの小橋の下をぬけ、富岡八幡宮・門前の蓬莱橋へ船を着けさせたのは、
八ツ半(午後三時)をすこしまわっていたろうか・・・・・。」
(第4巻「あばたの新助」P.161)

そのころの江戸の町は大川をはじめ、いくつもの川と、縦横に通じた堀江がむすびついており、「・・・・・市中といへども遠路に往くには舟駕を用いることしばしばなり・・・・・」
「どうだ、左馬之助。久しぶりに大川へ出てみようか・・・・・」
(第6巻「大川の隠居」P.186-188)

「これは大川に出るにちがいない。粂八。仙台堀にまわしておいた舟を、すぐに万年橋たもとの御船蔵のあたりにまわしておけ」・・・・・・
(第7巻「搔堀のおけい」P.134)

などきりがありません。

詳しくは、各物語の所で紹介したいと思いますが、
東京の水路は、南北に流れるこの大川を軸に考えるとわかりやすいです。

江戸の水路が固まっていたのは、大川の西側、
日本橋を中心としたエリアです。
今では、神田川、日本橋川、亀島川くらいしか残っていませんが、
江戸時代には、それらの川をつなぐ小さな掘割が無数にあったようです。

ちなみに、
これら神田川、日本橋川、亀島川も、
「川」という名前がついていますが、
人工河川、つまり掘割(運河)です。

反対の東側の中心部は深川で、
小名木川、大横川など、
今でもたくさんの掘割が残っています。

これらは、また追々紹介していきたいと思います。

by senju_izakaya | 2020-08-01 16:26 | 水路から見る『鬼平』


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